(執筆日:2006年09月01日)
「気持ち良いね。こんなの初めてだよ。」
20代前半の若いガイド君の声が弾んだ。もう2年もキナバル公園でガイドを務めている彼も、登山口(標高1866メートル)までジャングルを歩いて登ったことはなかったのだ。確かに、登山口までシャトルバスを使えば最短距離でキナバル山(標高4095メートル)を登ることができる。でも、私は高地のジャングルを登山口まで歩いて行くのも悪くないと思った。朝のジャングルは涼しく、前日の雨で空気も澄んでいた。流れる小川の音を聞きながら、人ひとり分しかない狭い山道を上流に向かって歩いた。時折吹き付ける風が木々に溜まった雨水を落として、火照った体を冷やしてくれた。とてもすがすがしいので、(バスで先に行った登山客との遅れを取り戻すために)早足で歩かなければいけないのが残念だった。
![]() | ![]() | ![]() |
ボルネオ島北部に位置するキナバル山は標高4095メートル、東南アジアの最高峰だ。世界遺産にも登録されているこの山は多様な動植物に恵まれており、エコツアーに適しているほか、比較的登山の容易な高山としても知られている。実際、人気(ひとけ)のないジャングルを抜けて正規の登山道に出ると、道は広く良く整備されていて、急な坂道には必ずと言ってよいほど階段が設置されていた。休憩所はあるが、いつも登山客でごった返しているのでほとんど休めなかった。最初は元気だったガイド君も、ジャングルウォークの疲れが出たのか、終いには「俺、休んでるから先に行ってくれ」という始末。最後は一人で山小屋(標高3323メートル)まで歩くことになった。
山小屋周辺の気温は摂氏5度弱、軽装の身体にはこたえた。特に、雨で濡れた足は氷のように冷たくなっていて、靴を脱いでお湯で温めなければならなかった。翌朝の再登山に備えて早めに床に入ったが、雨の勢いが増しており心配だった。
![]() | ![]() | ![]() |
朝起きると雨こそ止んでいたが、まだ風が強く、中高年、子供、女性ほか、体力に自信の無い者は登山をあきらめていた。自分は歩くペースが速い方なので少し遅め(午前3時半)に出発したが、真っ暗な中、濡れた岩場を懐中電灯を使って登るのは快適ではなかった。ガイド君が最悪の天気と嘆く中、一気に登ってしまおうと思ってペースを上げたが、困ったことがおきた。ガイド君がついてこないのだ。山岳ガイドなんていうのはむちゃくちゃ元気な人ばかりだと思い込んでいた私は驚いたが、ガイド君のペースは遅くなるばかりだった。そのうち、ガイド君が音を上げはじめた。「先頭集団と距離がかなりある。帰ろうよ。」と。私は、「それならもっと早く歩こうよ。」と言うが、ガイド君の足はゆっくりしか動かない。最終チェックポイントでガイド君を待っていると、辿り着いたガイド君に思わぬことを告げられた。「さっき足を擦って怪我をした。もう歩けないよ。もう歩かないぞ!」これには困った。ガイドなしの登頂は許されていないのだ。とは言っても、まだまだ元気もりもりの私は引き返したくなかった。マイペースで自由自在に歩きたかったので単独でガイドを雇ったのに、こんなことになるとは思わなかった。仕方がないので、抜き去ったグループが後からやって来るのを待った。次に来たグループのガイドは連れている3人(イギリス人など。体力はまぁまぁありそう。)にこう言った。「いいか?天気が悪いから、これより先に行くならストロングアップ、ストロングダウンだ。もし、お前らが動けなくなったら救援費用がこんなにかかるからな!それでも行くか?」メンバーの中には既にヘロヘロの者もいて悩んでいたが、結局行くことに決まった。自分も事情を説明して一緒に行かせてもらうことになった。
最終チェックポイントを過ぎると、斜面こそ急ではないが、強風が吹きつけていたため、飛ばされないように中腰で前進した。真っ暗な上に霧が濃い。視界は15メートルぐらいだ。いつでも足元のロープを掴める体勢を保った。3人のうち2人がすぐに遅れ始めた。ストロングアップどころではない。ガイドが苛立って大声を上げた。でも、怒鳴ったところで歩けないものは歩けない。仕方がないので岩陰に隠れて待っていると、身体がすぐに冷えてきた。他の登山者に比べて軽装の私にじっと待っているのはつらかった。軍手が濡れて手が凍りそうになった。手の感覚を保つために、左右の手を交互に口につっこんで息を吹きかけ続けたが、登山よりもそれで体力を奪われた。ようやく頂上に着くと、そこには誰もいなかった。本来なら頂上で日の出を待つのだが、天気が悪くてそんなものはどうせ見えないし、留まっていたら身体が冷えて動けなくなるので、みんな登頂するとすぐに下山を開始するのだ。私達も一通り、「うぉー!ありがとー!やったぞー!」などと叫ぶと、すぐに下山を開始した。登山に時間がかかった人間も、なぜか下山は速かった。日の出の時間が来ても結局何も見えなかった。というか、いつ日が昇ったのかすら分からなかった。天気が良ければ遠くフィルピンまで見通せると言われるキナバル山頂上から見えたのは、周辺20メートルほどの岩場と濃い霧だけだった。
![]() | ![]() | ![]() |
チェックポイントに戻って待っていたガイド君に、「いやー、風が強いし、寒くて大変だったよ。」と伝えると、「言わんこっちゃない。行かなきゃ良かったのに。」と言われた。確かに、全く楽しくない登頂だった。でも、やり遂げたことが大事なんぢゃー!
山小屋まで戻って軽い休憩と朝食を取ったあと、下山を続けた。山小屋から借りていた厚地の長袖を帰すと、Tシャツと半濡れのジーンズジャケットしか残らなかったので、むちゃくちゃ寒かった。小走りで身体を温めようとしたが、今度は大雨が降ってきた。いよいよ寒いので走り出した。結局そのまま、登山口まで一気に駆け下りてしまった。ちなみに、怪我をしたはずのガイド君はちゃんとついて来れた。未だに彼が本当に怪我をしていたのかは謎だ。
登山口からシャトルバスに乗ろうとするガイド君に、「現金があまり残っていないのでもう一走りしようか?」と伝えた時の彼の顔色の変わり様は最高だった。急いで運転手と値段交渉をしに行ったガイド君の背中はかわいかった。
